近年の国語教育では文学作品の読解が軽視される傾向にある。令和四年度より実施されている高等学校国語・新学習指導要領における科目再編は、国語科の科目を「論理的な文章」を扱うものと「文学的な文章」を扱うものに分割し、実質的に前者を大きく重視するものであった。こうした文学軽視の傾向の背景には、文学作品の読解が主観的な解釈の問題にすぎないという考えがある。そしてこの考えは文学研究の歴史とも関係している。
文学研究の領域では1980年代以降、作品には客観的な意味があるという考えが厳しく批判されてきた。読解における読者の重要性が強調され、作品の意味や主題とは読者が読解を通じて生成するものであるといった考えが主張されるようになった(読者論)。こうした考えを踏まえて国語教育研究でも、作品の正しい意味(正解)を前提とした読解の授業が「正解到達主義」として批判され、生徒の「主体的」で「自由」な読解が重視されるようになった。しかしその結果、文学作品の読解は客観性・普遍性を失うことで個人的な感想の域を出ないものとなり、その意義が見失われていったのではないか。文学作品の読解を再び意義あるものとするためには、読解の客観性・普遍性の再検討が不可欠である。
この試みは昨今の人文学の世界的な動向とも並行したものである。20世紀後半の人文学はさまざまな領域において客観性や普遍性という概念を疑問視し、相対化していった(先に述べた文学作品における客観的意味の批判も、こうした流れに属している)。しかしそれは、すべては主観的なものでしかないという過度に相対主義的な考えに接近するものでもあった。これに対する反省として、近年の人文学ではあらためて普遍的・客観的なものの探求が重視されている。客観的な実在の再定義を試みている現代哲学の実在論的潮流などはその代表的なものである。本研究はそれらの哲学・思想を援用しつつ、文学作品の客観的な読解の可能性を探ることを試みる。
本研究で特に参考としたいのは、現代フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーの「可塑的読解」に関する議論である。マラブーによれば可塑的読解とは「普遍的かつ個別的」な読解を意味している。一方で(読者論が主張したように)、テクストの意味は個々の読者によって産出されるものである。この意味において、テクストの読解は個別的である。しかし他方で、この読者は自分の先入見を排除してテクストを読むことが求められる。この意味で、テクストの読解は普遍的なものでもありうる。換言すれば、それはテクストを外的な枠組みに基づいて読むのではなく、内在的に読むということである。テクスト自体から解釈コードを取り出しつつ、このコードに基づきテクストを読むという循環的な読解こそが必要なのである。マラブーは主に哲学的テクストに関してこうした読解を主張しているが、その方法は文学的テクストにも援用可能であると思われる。これは日本国内において「テクスト論」と呼ばれ洗練されてきた、テクストを作者から切り離して読解する方法にも通じ、それを更新/再定義するものにもなるだろう。
本研究では、夏目漱石や太宰治、芥川龍之介といった著名な文学者による国語科定番教材作品を扱う。それによって、文学研究・国語教育研究の双方において多くの先行研究が存在するこれらの作品に関して、「可塑的読解」がテクストのどのような新しい可能性を提示するのかを具体的に示すことを試みる。
名称・型番(メーカー) | |
---|---|
- |