『破戒』の演劇性

顔写真

氏名
石塚政吾
E-mail
ishizuka@akita-nct.ac.jp
職名
教授
学位
修士(教育学)
所属学会・協会
早稲田大学国語教育学会
キーワード
日本近代文学
技術相談
提供可能技術
・自然主義文学
・私小説
・読むことと書くこと

研究内容

『破戒』の劇的な構成
 島崎藤村『破戒』は、夏目漱石をして「明治の小説として後世に傅ふべき名篇也」(明治39年4月3日 森田草平宛書簡)と言わしめた代表作である。また、「日本の自然主義文学運動の起点としての栄光を与えられることになった」(三好行雄『日本近代文学大辞典』)作品として文学史上位置づけられている。そもそも自然主義文学とは、人間の行動を遺伝と環境に代表される科学的手法で把握し、写実的に描き出そうとして起こった文学思潮のことである。『破戒』の主人公瀬川丑松がその出自を隠すか表すかで苦悩する背景には、父による「隠せ」という戒めと部落民の出自に対する社会的迫害が根強くある。父と子の血縁や部落民差別といった遺伝と環境を背景に、主人公の内的葛藤を見事に描き出した点が、自然主義文学の代表作と目される所以なのである。一方で、人間の行動を写実的に描き出すための方策として有力なのが、作者自身の実体験に基づく出来事をありのままに描くいわゆる私小説の考え方である。作者=主人公という構図は、作品の写実性を最大限に保障する。『破戒』の主人公丑松の苦悩は、作者藤村の苦悩であるがゆえに内実を伴って迫るところにこそ『破戒』の文学としての本質があると考えるのである。かくして、「客観小説」か「告白小説」かという議論が『破戒』にはついて回ることとなる。ここには、文学をめぐる重要な問題が潜んでいる。それは、写実的に表現するとはどういうことか。写実的に表現することが優れた文学を保障するのか。優れた文学とは果たして如何なるものなのかという文学の本質、言語の本質へとつながる問題意識である。
 文学が言語による創造物である以上、文学もまた言語の特質を離れて語ることはできない。言語は表現主体と読解主体とを媒介する存在である。テクスト論の登場は、表現主体と作品との関係性に強くひきつけられていた文学研究をいったん作者をかっこに入れることで、読者と作品との関係性に大きく途を拓いた。こうした作品論の中には、新たな文学の創造に寄与する論考がいくつも見られる。だが、作品はまた表現主体とは切っても切れない存在である。読解主体としてテクストに対する時、誰でもそのテクストの背後に表現主体を意識せずに読解行為を行うことはない。そして、表現主体を意識した読解行為、すなわち「対話」こそが、言語表現がもたらす豊かな言語解釈と感動を我々に与えてくれるのである。『破戒』というテクストがもたらす読みは、表現主体である島崎藤村が、何をどのように取り上げて表現した結果もたらされるのか。丑松の苦悩がかくも真に迫って伝わるのは、作者が何をどのように取り上げて表現しているからなのか。その一つに、演劇性すなわち「劇的な構成」があると考える。
 明治39年4月10日発行の『帝国文学』第137号には『破戒』の正確な梗概が鸚鵡公によって紹介されている。出版からわずか2週間後である。また、同年7月、『破戒』は真砂座にて伊井蓉峯一座によって上演される。出版からわずか3ヶ月足らずである。かくも短期間で梗概をまとめ脚本化を可能にした理由は何なのか。それは、鸚鵡公なる人物が藤村と親交を持つ小山内薫で、彼が脚本を担当したからである。そしてそれは同時に藤村が、如何に小山内や劇との接点を有し、『破戒』執筆に向かったかを物語っている。藤村は『破戒』に先立ち、「旧主人」(『新小説』明治35年11月1日)という短編を発表している。奉公先の奥様の不貞を旦那様に暴く様子が奉公女の口から語られる。そのクライマックス、藤村は「天皇陛下萬歳」の歓声を背景に奥様と歯医者の接吻の場面を配する。「劇的な構成」の準備はすでに整っていたのである。

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